武蔵野美術大学で木版画を選択した学生に、木口木版画制作のための実技指導を行うようになって、今年で六年目を迎えました。集中講義ということで、約一ヶ月かけて参加した学生に木口木版画を1点制作してもらうという訳です。私は週一回のペースで、武蔵野美術大学に通うのですが、この時期をとても楽しみにしているのです。
武蔵野美術大学へは中央線、国分寺駅からバスで向かいます。国分寺駅に降り立つたびに、私はとても懐かしい気分にひたってしまいまうのです。国分寺駅界隈には若き日の私の、様々な思い出がちりばめられているからです。今から三十年ぐらい前のことです。
木口木版画家を目指してはみたものの、私は、将来への不安や焦燥にさいなまれる日々を送っていました。その時期、日本の木口木版画の先駆者、日和崎尊夫さんとめぐり会ったのでした。当時、日和崎さんは国分寺に住んでおられました。そんな訳で、私はことあるごとに国分寺に出かけ、日和崎さんとお会いしていたのです。とは言っても、会えば必ず飲みに行き、したたかに酩酊し、しょっちゅう国分寺の路地裏の飲み屋を徘徊していたものでした。文章にして公開できない、様々な出来事もその時期体験しました。しかしながら、その頃の私は、ほとんど酒は飲めない状態で、日和崎さんよりも私のほうが先に酔いつぶれてしましうこともしばしばありました。そんな時、日和崎さんは、酔いつぶれた私を背負うようにして、ご自宅まで運んでくれました。その時のことは、今でも鮮明に覚えています。
日本の版画界の中で、あの日和崎さんに酔っ払って介抱していただいた者は、後にも先にも、私ぐらいしかいないのではないかと思っている次第です。
そして、世界に誇る木口木版画家、日和崎尊夫さんは、武蔵野美術大学の卒業生だったのです。私は、武蔵野美術大学で木口木版画を教える初めての日には、必ず日和崎さんの話を学生達にすることにしています。今日の日本の木口木版画を語る上で、日和崎尊夫さんは欠かすことのできない素晴らしい作家です。そして、日和崎さんの仕事に触発され、木口木版画を手がけるようになった人々が、現在、木口木版画家として制作を続けているのです。
今回の木口木版画の講義は、私が持参した椿の木を切断することから始めました。木口木版画は、その版木の調達がなかなか大変です。持参した椿の木は、近所で拾ったものです。その木を版木に加工し、試し彫りに使用してみようという訳です。
この程度の太さであれば、数分で輪切りにすることができます。椿の木は比較的入手しやすいので、この方法を体験しておけば 、いざというとき結構役に立つのです。
本番では、ご覧のような洋黄楊材を使うことにしています。黄楊材と椿材との彫り味の違いを体験してもらうこともこの実習のねらいです。磨かれた黄楊の木口面の美しさ、滑らかな肌触りは、木口木版画に興味を持っている方に、是非ともご覧いただきたいと思っています。
輪切りにした椿の木を、サンドペーパーで削ります。切断した木の状態にもよりますが、No.350からNo.800番ぐらいまでで十分でしょう。黄楊の場合は、椿よりかなり硬いので、鋸での切断にはもっと苦労します。削りも大変です。現在、木口木版画の版木は、大体サンドペーパーで削られているようですが、かつて、私が木口木版画を始めた頃は、専門の職人さんがいて木口面を鉋で削り仕上げていました。私は、この鉋で削られた木口版木の彫り味が、いまだに忘れられません。しかしながら、もうその技術を持った職人さんはいなくなってしまいました。したがって、私が理想とする木口木版画の版木は、今となっては手にいれることができなくなってしまったのです。しょっちゅう、黄楊の木を自分で鉋で削ってみるのですが、これが実に難しく、いまだに納得いく版木は作ることができません。
版木が出来上がったら、いよいよ肝心のビュランの砥ぎ方をマスターしてもらいます。このビュランの砥ぎも初めての方には、なかなか厄介な作業となります。買ってきたばかりのビュランは、全く砥いでいないのでぜんぜん版木を刻むことはできません。ビュランの大まかな形は、電動の砥石を使います。その後、インディアンオイルストーン、アルカンサスオイルストーンといった砥石を使い分け、砥ぎあげていきます。
学生達には、砥ぐ前の状態と、砥ぎが終わった状態のビュランの、切れ味の違いを体感してもらいます。
こういう様に、細かく説明すると大変なように思えるかも知れませんが、木口木版画を、今すぐ体験してみたいと考えたら、とりあえず外に出て、椿の木か、桜の木を拾ってきましょう。輪切りにし、サンドペーパーで磨きます。ビュランが無かったら、ホームセンターで、マイナスのドライバーを買い求めてください。ついでにグラインダー。グラインダーは少し大げさですから、金属を削るヤスリを手に入れましょう。ドライバーの先を、V字状に削り砥石で磨いてください。即席のビュランが出来上がります。
本日の講義は、この辺で終了いたします。次回は、木口木版画の彫り方。摺り方を試してみましょう。
つづく