かくして、ニューデリーからアグラへ向かうべく、私は列車の切符を買おうと思い、駅のチケット売り場へ出かけた。行ってみてそのあまりの混雑に度肝を抜かれた。どの窓口もインド人の長蛇の列。一番後ろに並んだものの、いたるところで横入りの横行。ぜんぜん前へ進まない。一時間待っても、二時間待っても、行列の最後尾付近でうろうろしているばかりだ。さすがに頭にきて、私の前に平然と横入りしてきた人物を怒鳴りつけた。するとその人物、外国人は、専用のチケット売り場があるので、そこに並べと逆に怒鳴り返された。
私は、外国人専用のチケット売り場をやっとの思いで探し当て並んでみたものの、その日のチケットの販売はすでに終了していた。インドでは、切符を買うのも一日仕事であるという現実に直面した。
すごすごと宿へ戻る途中、偶然にも旅行代理店と思しき店を見つけ、アグラ行きの相談をしてみた。すると、早朝出発するバスがあるので乗ってみたら、という話になった。再び駅で切符を買うのも疲れそうだったので、バスの切符を買い求めた。朝四時ごろ出発するというアグラ行きのバスの、今度は停留所の説明をいくら聞いても理解できない。困ってしまい、ニューデリーの町の地図に記しを付けてもらった。
翌朝、そのしるしを付けてもらった場所へ行ってみて、また驚いた。バス停の表示も何も無い。バスを待っているらしい人影も無い。何の変哲も無い街角に、仕方なく私はたたずみバスを待った。するとしばらくして、何処からとも無くおんぼろバスが、黒煙を撒き散らしながら、猛然と走りよってきた。私の目前で停車し、チケットを確認しバスにのることはできた。その後バスは町中を走りまわり、いたるところで乗客を拾い、郊外へと走っていった。どうやら、インドでは決まったバスの停留所は無いのではないかともおもわれたが、単に私が、バス停の存在を認識していなかったということも考えられる。路線バスの停留所の存在は分かったが、長距離バスの停車場は、今もって不可思議なのである。
そのバスの乗客の中に私以外に、もう一人日本人が乗車していた。旅は道連れとでも言うべきか、すぐに打ち解け同行を決めた。インドやネパールの一人旅では、こういった、旅行者同士の出会いもまた楽しいできごととなる。大体一人の旅行者は、多かれ少なかれ、不安を持っているものだ。また貧乏旅行者も多く、二人連れになれば、ホテル代が半額になるというのも嬉しい。そんなわけで、この地域を旅行していると、一人旅とはいいながらも、全くの一人っきりというのはきわめて少なくなる。いつも、誰かと友達になり、行動をともにしていたものだ。あるときはたった一日。あるときは一ヶ月近く、といった具合で行動していた。旅先でであった同年代の連中の中には、いまだに思い出す気のあった、かけがえの無い人々も多く存在していた。多分、もう一生会うことはないと思うが、そんな連中と日々行動をともにした若き日の思いでは、私の宝物となっている
バスで一緒になった日本人はどうやら学生のようだった。四年生で卒業間近、就職も決まっていて、卒業記念旅行にインドを選んだということだ。私が自由業で、いつ帰国してもかまわない状況だと告げると、しきりにうらやましがられた。しかしながら、私はといえば、このインド旅行のきっかけは、その就職の問題から逃げるためでもあったようだ。木口木版画家を目指してはみたものの、将来に対する不安は、日に日に増して行った。当時私は二十七歳ぐらいだったが、少し前までは、アルバイトをしながら、制作を続けていた友達も多く存在していた。しかしながら二十七にもなると、さすがに自由業の友人も少なくなり、大半は就職していった。いつの間にか、夢を追い続けているのは自分ひとりだということに気がつき、愕然としたものだった。
だが私にも、自負している事もあった。というのは、このインド旅行の費用の捻出の方法だ。大体は、アルバイトで旅費を工面したと思われがちだが、その時、旅費は実は文庫本の表紙絵を制作して稼いだものだった。当時、売れっ子の小説家、西村寿行という作家のお名前をご記憶されている方もいるかと思うが、文芸春秋社刊行の文庫本の表紙は、全て私が制作していた。シリーズで五冊ぐらいまとまった表紙絵の仕事が入り、その原稿料で旅の費用をまかなったというわけだ。
約千ドルという原稿料が、この旅の経費となった。
バスは以外に快調に走り、昼前にはアグラ名物、タージマハールの近くに到着。
先ずはタージマハールを見物しようということで、白亜の荘厳な建造物の内部へと足を踏み入れた。
*第一回目のインドの旅には、不覚にもスケッチブックを持っていかなかった。またカメラは、ニューデリーのバザールで売り払ってしまい、現在、一回目のインド旅行の資料は全く残っていない状態だ。したがってこの旅行紀の連載には、あまり画像は挿入できない。最も画材は、インドで購入することもできたわけで、スケッチ一枚残っていないというのは、私にその気がぜんぜん無かったということなのだ。
つづく