フィレンツェでの生活に、どうにか落ち着きを感じ始めた頃、イル ビゾンテの学校長に呼び出された。何かと思い早速会いに出かけてみると、木口木版画で、学校長のための、新作エディションを起こしてくれないかというお話であった。詳しくその内容をお伺いすると、もうじきクリスマス。クリスマスには、毎年イル ビゾンテの在籍者の中から一人作家選び、クリスマスのプレゼント用の版画を作らせているという。今年は、クリスマスのプレゼント用の版画の制作を、君にお願いしたい。そういう嬉しい申し出であった。私は、即座に承諾した。制作の費用として、学費は免除という信じられない条件までついていた。これには、私は喚起の涙がこぼれた。家族を日本に残しての渡欧だったので、滞在費はぎりぎりに切り詰めていたのだった。私は大いに、学校長に感謝し、日本から持って来た私の版画の殆どを、学校長への私からのプレゼントとして差し上げることにした。
左の作品が、イル ビゾンテ学校長 シニョーラ グワイタのために制作した版画だ。 50枚ぐらい摺ってお渡しした。板目木版画と、木口木版画を併用した多色摺りの技法を使っている。制作に使用した版木は、カラーラのアカデミアの教授、イル ビゾンテでも非常勤講師を務められていた先生から頂いた。
その教授のお話しでは、彼のおじいさんが、どうも木口木版画の制作をしていたらしいのだ。初めて私の木口木版画をご覧になられたとき、彼は、盛んにノスタルジーを感じるとおっしゃっていた。教授のおじいさんの作風と、私の作風に共通点を見出していたらしい。そんなわけで、教授の自宅には、おじいさんの遺品の木口木版画の版木が残されていて、それを私に提供してくださったのだ。
ちなみに帰国後、イタリア滞在の印象を基にした『楽園伝説』という版画文集を制作したのだが、画文集に登場する「教授」は、このとき木口木版画の版木を提供してくださった、カラーラの、アカデミアの実在の美術家がモデルとなっている。
フィレンツェでの生活が始まって、二週間経つか経たないかといううちに、嬉しい仕事の依頼が舞い込んだ。学校の授業そっちのけで、私は新作の制作に熱中した。摺りは、ビゾンテの工房で行ったが、たびたび見学者の訪問があった。イタリアのか方々にとっては、私が日本から持参した、十六コ本ばれんが相当珍しいらしく、分解して内部を見せてくれという注文が相次いだ。
無事エディションの仕事も終了した頃、フィレンツェはクリスマスの時期を間近に控えていた。イタリアではクリスマスを「ナターレ」と称し、一年を通じて特別な意味を持つ大切な行事として位置づけられているようだった。ナターレを迎えようとしている街は、様々な電飾の飾りつけが施され、商店のウインドーも、ナターレの飾りつけに彩られ始める。ショーウインドーの中にはキリスト生誕のシーンを表現した、馬小屋のミニュアチュールのジオラマがこしらえられている。薄暗いウインドーの中には、豆電球に照らされた馬小屋が仄かに浮かび上がり、ロマンチックで敬謙な空間を醸し出しているのであった。帰国後も私は、クリスマスの時期が近づくとイタリアで見た、小さな暖かい馬小屋のジオラマのことを、必ず思い出すのである。帰国後、その雰囲気を自作で表現しようと思い作ったのが、テラコッタの電気スタンドだ。
これらのテラコッタは、ウッドキャビネットという、立体の作品にはめ込み展示している。
また個人的に開設している子供の造形教室では、年末、クリスマスが近づくと、このテラコッタ製の明かりをテーマにした作品の制作を作らせることにしている。
ナターレの時期のフィレンツェは、一人暮らしの身には限りなく、切なく寂しい時期でもあった。夕刻、街中に出ると、漫ろ歩く人々は、家族連れや恋人達といった具合で、一人でほっつき歩いている者はあまり見かけない。やるせない気分のうち、足を向けるのは教会だった。ナターレの期間中は、教会ではミサが執り行われているらしく、教会の前を通ると、パイプオルガンの哀愁を帯びた旋律がもれてきていた。その旋律に誘われるようにして、教会の内部へと足を踏み入れたのだった。
学費を納めなくてすんだ分、私は冬休みを利用して、イギリス ロンドンへ行く計画をたてた。実は、現代の欧州で、木口木版画が最も盛んに作られているのは英国なのだ。そんなわけで、イギリスには木口木版画の版木を製造、販売している画材店が存在している。木口木版画関係の道具や材料も取り揃えているらしく、一度は訪れてみようと考えていた。
フィレンツェからフランス、パリ経由で英国を目指した。夜行寝台車で夜フィレンツェを発つと翌日の早朝、パリ、確かガーデ ノール(北駅)だったと思うが、到着する。そのときは急いでイギリスに行きたかったので、パリからイギリスまでは、ユーロスターに乗車。三時間ほどで英国、ウォルター ルー駅に着いた。ともかくロンドンの中心部にいってみようと思い、イギリス名物の地下鉄、チューブでヴィクトリア駅に向かった。ヴィクトリア駅周辺でユースホステルを探してみるつもりだった。
ところが年末休暇の時期でもあり、何処へ行っても満室状態。安宿を探し求めて、アールズコートまで行くことになった。アールズコートで運よく安宿を見つけたが、 スチームも弱く結構冷え冷えとしていた。日本から持って行った寝袋と、キャンプ用の携帯ガスコンロがとても役に立った。
さて、ロンドンの木口木版画の材料を扱っている画材店は、「ローレンス」という店だが、地下鉄、ホルボーンという駅近くにあった。私はこのとき確か、大英博物館から歩いて行ったように記憶している。店ではやはり、英国製の木口木版画の版木が 販売されていた。洋黄楊の立派な版木を5~6枚買い求めることができた。これで一年間、フィレンツェで木口木版画の制作を続けることが可能になった。
版木の製造工場の見学も進められたが、そのときは時間の都合で、工場へ出向くことは断念した。
ロンドンの冬はとても寒く、日の暮れるのも早い。午後になると、もう日差しも弱まり夕方のような状況になってしまう。午後四時ごろは、もう夜である。そんなロンドンの長い夜を楽しく過ごすために、ピカデリーサーカス周辺の劇場や、映画館。町中いたるところにある、英国パブは格好の暇つぶしの施設となる。
その時のロンドン滞在は、一週間にも満たない期間だったが、美術館、博物館はおおよそみ見てまわることができた。英国の美術館は、入館料が無料だということも嬉しいことだった。
英国ではそのほか、アンティークマーケットを見て回るということも私の旅の目的の中にあった。木口木版画の盛んな英国だ。木口木版画の古版木を見つけられないだろうか、という強い思いもあったからだ。ロンドンのアンティークマーケットを可能な限り見て回ったが、古版木にめぐり合うことはできなかった。
冬のロンドンを離れたのは、その年の大晦日だった。パリ行きの長距離バスは、ドーバー海峡をフェリーで渡るのだが、その時ドーバー海峡を行き来する船舶の数の多さには圧倒された。ヨーロッパの中でも、英国、ロンドンは最も活気のある都市だったように記憶している。
つづく