茨城県西部を流れる鬼怒川は、かつて、江戸と常陸国を結ぶ水路が設けられていて、交通路、通商路としてにぎわっていたようだ。鬼怒川の流域に水海道という地名がある。現在は、合併で常総市となっているが、昨年までは水海道市という名称で親しまれていた。関東平野の内部に位置しながら、水海道という地名に少し不思議な思いも抱いていたが、鬼怒川の水運の利を考えれば納得できる地名という印象をもっていた。
この水海道には、知る人ぞ知る古刹、『増上寺別院 弘経寺』というお寺がある。このお寺は、徳川幕府二代目将軍、秀忠の長女として生まれた千姫の菩提寺として今日に至っている。
この寺院の住職に、私の知人がなられたのを契機におとずれてみた。弘経寺は、水海道の名所旧跡でありながら、老朽化のため荒廃が進み、修復の事業が始められている。
特に本堂の荒廃はすさまじかったらしく、現在は解体され新しい本堂再建の工事が進められている。
その境内を散策していて、本堂の屋根の部分に使われていた、詳しい名称は分からないが、通称「鬼」といわれているいわば「破風」のような、木製の屋根の一部がころがっているのに気がついた。良く観察してみると、長いあいだ、風雨に晒され続けた建築物は、木目が浮き立ち、私はこれはまさに版木だという確信を私は抱いた。
この屋根の一部を是非とも版木に見立て、プリントしてみたくなった。住職にその旨お伺いしたところ、快諾を得たので実行してみることにした。
さてこの巨大な木の塊をどのようにプリントするか。さまざまな方法が存在するが、対象物が文化財の一部だということもあって、絶対傷つけたり汚したりしてはいけないということがこの作業のポイントとなる。
考えた末、拓本摺り(正面摺り)の手法を採用してみようと考えた。しかしながらこの手法は、水性の墨を使用するため、にじみが木部に付着してしまう可能性が危惧された。墨の汚れは、一度付着すると殆ど落とすことはできない。そこで、水性の塗料の使用は断念し思い切って、油性のインクを使ってみることにした。油性のインクであれば適量用いることによって、にじみを極力押さえ、本体を汚さないで作業が進められると考えられた。最大の問題は、どんな紙を使うかだった。縦3メートル横4メートルものサイズをカバーできる紙は存在しない。
そこで思いついたのが、私が普段木口木版画の摺りに使用している雁皮紙であった。四国、井野町で漉かれた雁皮紙は、縦1メートル50センチ、横は50メートルのロール状になっている。雁皮紙といえども、若干厚口の仕様で、結構丈夫だ。この紙を、本体にのせ、拓本摺りというよりはむしろ、フロッタージュで擦り出してはどうだろうかと考えた。
思い立ったが吉日とばかり、数日後、材料道具を積み込み現地に出かけた。
本体を任意のパーツに分け、部分部分をフロッタージュで摺り取り、仕上がった段階で一枚のボードにコラージュしてみようという方針を立てた。油性のインクを伸ばし、自家製のタンポを使い、丹念に写しとって行く。
約六枚の紙に、全体を刷り上げるのには二日間を要した。一日目は、中腰の作業が続き腰が痛くなってしまった。二日目でほぼ全体をプリントしたが、作業をしていて、古の宮大工の匠達の鑿使いが、薄い紙を通して指先に伝わってきた。広い境内の中での作業は、時空を越えた、職人達との静かだが、熱いコラボレーションの感動を私に体感させてくれたようだ。朽ちかけている屋根の一部は、やがて腐敗し、土に帰っていくことだろう。私のこのオブジェクト プリントの作業に、いったいどういう意味が存在しているのかは、今ははっきりと認識してはいない。だが、この作業を通して私は確かに、この木製の大きな物体から、古の匠の心意気のような息遣いを感じとっていたのだ。私の体の中にはいつしか、数百年前の、宮大工の棟梁の叱咤激励が木霊していた。
アトリエに持ち帰った紙をつなぎ合わせ、壁に貼ってみた。ここから、この巨大な印刷物を作品として成立させるための、表装の工程が待っている。最近試みている、スタイロボードに貼り込み、持ち運びも考慮に入れて、六ピースぐらいに分割した、パズル形式の展示方法に仕上げてみようと考えた。この作品を一枚の板に表装してしまったら、アトリエから外へ運び出せなくなってしまう。
現在はまだ、完成していないので公表することができないが、いずれ皆様にご覧いただける日も訪れることだろう。公開の予定は、現在未定だ。
今回の、オブジェクト プリント プロジェクトは、私の従来の制作とは少し意味が異なっているが、実は、第二弾、第三弾ぐらいまでプランは持っている。しかしながらこのプロジェクトは、その対象物の所有者にお伺いを立て、了解を得なければ進めることはでせきないということが厄介だ。しかしながら、いつになるか分からないが各地での、オブジェクト プリント プロジェクトは密かに、どこかで、着々と作戦が練り上げられている。プリント実行部隊は、出撃の指令が出るまで、準備万端整えてスタンバイしている。ただ、本当に大き過ぎて、作品として成立したとしても、展示スペースがめったに存在しないということが悩みの種として残りそうだ。
次回のプロジェクトに、乞うご期待。 栗田政裕