今年の12月に、左記のようなグループ展に、出品することになりました。
四人の若い版画家が中心の発表ですが、五十代の私も、特別出品という形で参加を要請されました。
かつて、『鑿の会』という六人の木口木版画家で構成されたグループに参加していたことによるものです。ところで、鑿の会は、解散したのですかと、時折尋ねられますが、実際は解散宣言を公表したというようなことはありません。数年前までは、『鑿の会』は活動休止状態だ。というのが仲間内の見解だったように記憶しています。
今回の木口木版画展覧会への出品の要請は、この展覧会を企画された、水玄舎水野谷正樹さんからのお話でした。水野谷さんと私との付き合いは三十年ぐらい前から始まりました。
当時水野谷さんは、「月刊美術」という雑誌の編集者をなさっておりました。。私はその頃二十代で、ちょうど今回の展覧会に出品される若い版画家とほぼ同じ年齢の時代でした。木口木版画作家として発表活動を始めたものの、将来に対する不安、焦燥等、様々な思いを抱えながらの制作作活動を続けていたのでした。
水野谷さんが私の個展の会場を訪れてくれたのを機会に親しくなり、よく飲み歩いたり、版画のことについて語ったりしていました。そういう個人的なつきあいから、当時の私は、随分励まされたものでした。今回の出品作は、そんな水野谷さんとの若かりし頃の思い出を考慮し、二十代の中頃に制作いたしました、『眩暈華』のシリーズを出品作として選んでみました。
ところで水野谷さんは、第一回目の『鑿の会 木口木版画展』の開催にも深く係わっていらっしゃいました。鑿の会は、柄澤斎さんの発案で結成されました。当時、柄澤さんは、木口木版画のグループ結成を呼びかける手紙を、私を含めた数名の木口木版画作家に送り、その手紙に賛同した五人の版画家によって、木口木版画のグループが結成されました。その時点では鑿の会という呼称はまだ無く、しばらく後、これもも柄澤さんの提案で、正式に『鑿の会』というグループ名が誕生したわけです。鑿は、言うまでも無く、ビュランをさしています。
第一回、鑿の会の展覧会の案内状です。京橋にあった、パシフィックアートギャラリー をご紹介下さったのが水野谷さんだったように記憶いたしております。この展覧会の時には、小林敬生さんはまだメンバーに加わってはいませんでした。会期中のいつだったかは忘れましたが、自作を携え、小林さんが会場に見えられ、以後小林さんも、鑿の会のメンバーとなったのでした。
この第一回鑿の会木口木版画展は、五人の詩人と五人の版画家による詩画集『水夢譚』も展示いたしました。(沖積社刊)この『水夢譚』という詩画集のタイトルは、詩人の三好豊一郎さんの発案だったように思います。この詩画集で、私は詩人の窪田般弥さんと組むことになりました。話は、数年前のことになりますが、私の個展の会場に、窪田般弥さんがせお見えになり、二十年ぶりに再会することができたことには感激いたしました。
この展覧会から二年ぐらい後、『鑿 創刊記念展』という形で、三鷹市の形象ギャラリーで木口木版画のグループ展が始まったのでした。この時から小林敬生さんもメンバーに加わったのでした。この形象ギャラリーには、編集のお仕事をなさっていた、岩部定男さんという方がいらっしゃいました。この方は創形美術学校に招かれ、本作りの講義をおこなったことがあったようです。その時おそらく柄澤さんは、形象社の岩部さんと出会い、それが後の木口木版画年間誌『鑿』の発刊につながったのではないかと私は予測していました。そのいきさつは、創形美術学校での私の恩師でもあった、吉田穂高先生にお伺いしたことです。
鑿の会の生誕については、私が発行している『イマジオ&ポエティカ』という冊子に詳細に記述していこうと考えています。ともあれ今日まで、私が木口木版画を制作し続けてこれたのは、様々な方々との出会いがあったからです。今回の展覧会に参加することになり、私自身、二十代の頃のことを懐かしく思い出しています。
ご高覧いただければ幸いです。