フィレンツェ サンタマリアノベッラ駅から徒歩、二十分ぐらいの所に安ホテルを見つけた。安いといっても、一泊五千円ぐらいだから、これは大きな出費となる。
ホテルの室内は、薄汚れたベットがひとつ、洗面台、ベニヤ板で作られた粗末な洋服ダンス、といった具合で、なんとなく裏さびれていてやるせない気分になってしまった。しかしながら、駅からホテルまでの道すがら、フィレンツェの街並みを観察したところ、中世の雰囲気を色濃く残したヨーロッパの古都フィレンツェは、私の感性に妙にマッチしているように思われ、この街ならばたった一人でも、一年間暮らしていけるのではないだろうかという、思いがこみ上げてきた。そのことに少し勇気づけられたのだった。
一休みの後、大事な探し物をするため、フィレンツェの繁華街へと出かけた。探し物とはキャンプ用のガスコンロだった。日本から持参した食料を調理するための必需品である。ガスコンロのボンベは飛行機では持ち運ぶことはできない。このことで、実はインド、ネパールの旅行のとき大失敗をしていた。キャンプ用のガスコンロ、ボンベ、固形燃料をザックに詰めて飛行機に持ち込もうとしたところ、成田の荷物検査で、それらの発火性の物品は全て処分させられた。考えてみれば当然のことだ。その経験をふまえ今回は、現地調達をしようと考えたのだった。
登山用具のスポーツ用品店は比較的簡単に見つけることができた。それもそのはず、イタリアは、実は登山の隠れたメッカでもある。北にヨーロッパアルプスがあり、マッターターホルンの山頂にはスイスとの国境が引かれている。北イタリアのドロミテは、ドロミテ針峰群と呼ばれる峻険な岩山が屹立している山岳地帯があり、ロッククライミングの聖地として、多くのアルピニストが訪れているのだ。
無事、登山用の携帯ガスコンロを購入することができた。このガスコンロは、その後一年間、私の欧州旅行の必需品となったのである。
さて、次に大切な用事は、受け入れ先でもある、インターナショナルアートスクールの存在地を見つけ、入学手続きをすることであった。住所を頼りに、観光もかねて歩いて探すことにした。学校は、フィレンツェ市の中央を流れるアルノ川の対岸に位置していた。市街地から、観光の名所、ミケランジェロ広場に至る途中にある。
早速証明書を持って、事務所にでかけた。私が事務所で、受け入れ証明書を提示すると、事務員は、真顔で、まさか本当にく来るとは思ってもいなかったと言いつつ、驚きの表情をみせていた。こっちも驚いた。しかしながらその学校には、日本からの留学生も在籍していて、通訳をかって出てくれたのでこれにはずいぶん助けられた。学校長との面談のおり、日本から持参した私の作品を提示したところ、学校長は私の版画を随分気に入ってくれたらしく、とても親切に対応してくださった。嬉しいことにホテル暮らしでは何かと不便だろうということで、学校の近くに、とりあえず下宿を紹介してくださったのだ。その下宿に二週間ばかりお世話になり、やがて、きちんとしたアパートを斡旋していただくことができた。地図の②が、学校の所在地。①が一年暮らすことになったアパートの位置である。
①のアパートは、結構良い場所にあった。花の大聖堂、フィレンツェのドゥオーモまで歩いて五分。ウフィツィ美術館まで十五分。ヴィア ディ メッゾ37番地という所だった。
上の写真が、イル ビゾンテの版画工房だ。古いパラッツオ形式の建物の内部に作られている。画面中央が工房入り口。奥にエッチングプレスが4台ぐらい設置されている。入り口の左側がアクアチントボックス。大き目のコンプレッサーで松脂を吹き上げ、版の上に降らせる。このアクアチントボックスの威力は、日本の何処の施設のものより勝っていたように思う。私でも十分均一で、真っ黒な画面を作ることができた。入り口、右に腐食用のバットが置かれている。硝酸で腐食するわけだが、ヨーロッパでは学生は銅版は使わない。多くは亜鉛版を使っている。私も亜鉛版を使ったエッチングの制作を行ったが、銅よりもやわらかい亜鉛は、腐食の短縮にとても有効だと思えた。腐食が早い分、かなり深いエッチングが速やかに進み、摺ったときのインクの盛り上がりに、圧倒的で物理的なインクの美しさが存在しているように感じとれた。どうして日本ではエッチングに亜鉛版を使わないのか不思議である。
画面右下、壁に立てかけてある白い板状の石は、リトグラフ用の石版である。無造作に雨ざらしになっている。興味があったので覗いてみたら、表面の図柄が残っていた。どうも古い時代の木口木版画から転写した版らしい。同じ図柄が、複数面つけされていた。写真製版が導入される以前は、コマーシャル関係の印刷物にはこの手法が使われていたようだ。つまり、木口木版画でイラスト文字等を彫り、紙に摺り取り、石版石に複数転写し、リトプレスで摺れば、一度に多くの印刷物が摺れるという訳だ。
この場所は、中庭になっている。学生として利用していたとき、この場所は格好の癒しの空間となっていた。昼食を取ったり、学生同士歓談したり、この中庭で、様々なパーティーが開催されたりしていた。
かくして私のフィレンツェでの生活は、学校関係者のご好意で、イタリア語を一言も話せない状態ながらも順調に始まってしまったのだった。
イル ビゾンテのエントランスは、版画のプレス機の博物館のような仕様になっていた。左のスケッチは、エッチングプレスだが、シリンダー、ベッドは木製のようだった。説明書によればピカソのエッチングを摺ったこともあるらしい。
イル ビソンテは、もともとは版画の摺り工房だったのだ。欧州の画家の版画を多数増刷し、流通させていた。いわば印刷所と、ギャラリーの昨日を合わせ持った施設だったのだ。
つづく