2007年1月、「DOMANI・明日展」という展覧会に出品することになりました。私も、ずいぶん前になりますが、イタリア フィレンツェで 一年間研修を行いました。この展覧会への出品を依頼され、古いアルバムを眺めていたら、当時の記憶が走馬灯のように脳裏に浮かんでまいりました。フィレンツェでの一年の暮らし、欧州で出会った方々の思い出。とても懐かしく思い出しています。
文化庁派遣芸術家在外研修員に応募するためには、先ず研修先の受け入れ証明書が必要となります。私は、イタリア フィレンツェのイル ビゾンデ インターナショナル アートスクールという、版画の専門学校の受け入れ証明書を入手いたしました。
私がイタリアに旅立つことになったのは、11月のことでした。当時、非常勤講師をしていた、創形美術学校の有志の方々が、壮行会を企画してくださいました。その時取った思い出の写真は、イタリアでの一年間に取りためた写真のアルバムの、一番初めのページに貼ってあります。本当にありがとうございました。
版画作家仲間達との楽しかった壮行会の数日後、私は、家族に見送られ成田からイタリアへと向かいました。五十キロ近い荷物の中身は、木口木版画の版木とその材料、乾燥麺、麺つゆといった具合でした。木口木版画の版木や材料は、イタリアでは多分、調達できないだろうと考えたからでした。乾燥麺は食料です。何しろイタリア語は一言も理解できない状態なでの、しばらくは
空路15時間ぐらいかかったでしょうか、イタリア ミラノ国際空港に到着したのは夜八時頃でした。空港へ無事降り立ったのは良いものの、そこからフィレンツェへどうやって移動したら良いのか、実は全く調べてはいなかったのです。
国際空港にもかかわらず、インフォメーションの職員は、英語がわからないのでした。こちらはイタリア語はまったく分かりません。ともかく、飛行場からミラノ市街へ出て宿を探さなければなりません。やっとの思いで、ミラノ市内へ向かうリムジンバスに乗り、ミラノ中央駅へ到着することができました。荷物の軽い旅だったら苦労はないのですが、なにしろ五十キロ近い荷物を抱えての移動は、これは想像を絶するものです。夜中に駅に着き、それからの宿探しは困難です。適当なタクシーを捕まえ、安宿に連れて行ってもらうというかつて、インド旅行でよく使った方法をつかいました。運よく安価なホテルに連れて行ってもらうことができました。ホテルの部屋に落ち着き、ガイドブックを開き、フィレンツェまでの行き方を調べてみると、ミラノから列車で、三時間ぐらいかかるようです。この重すぎる荷物を携えての移動を考えると、すべてを投げ出して今すぐ家族のいる、日本へ帰ってしまいたくなるような、切ない思いもこみ上げてきていました。
その夜は食欲も無く、疲れもあって瞬く間に熟睡してしまいました。翌朝は、再び大きな荷物を担ぎミラノ中央駅へとタクシーでむかいました。ミラノ駅とホテルの距離は、そんなになかったのですが、荷物を一人で運ぶことを考えると、タクシーに乗らざるおえませんでした。
始めて見た、ヨーロッパの建築は、ミラノ中央駅です。建物の前に立つと、その圧倒的な存在感に押しつぶされそうになってしまいます。大理石を積み上げた建造物は、日本人の目から見れば、駅舎とは思えないほど豪壮な風格を持っています。人物が写っていないので、大きさの比較ができないでしょうが小さく写っている車のサイズから想像してみてください、駅の内部に足を踏み入れると、その内部空間にも驚愕させられます。11月のミラノは、少し肌寒く感じられるのですが、駅の内部は案外暖かく感じられます。その後ヨーロッパの各地を旅していて思ったのですが、欧州の駅構内や、美術館、教会の内部は、夏は涼しく、冬は暖かいといった具合で、一人旅の休憩場所には最適です。特に教会は静かで、居心地の良い非難休憩スペースとして重宝いたしました。
ミラノ駅からフィレンツェへの移動は列車を使うが、どの列車に乗ったら良いのか分からない。何しろヨーロッパの時刻表が理解できないのです。どうにかこうにか、フィレンツェ行きの列車に乗ることができたのですが、普通乗車券のみで急行に乗ってしまい、検札に回ってきた車掌にどやされ、とは言っても、全くイタリア語を解さないのでどうして良いのか分からず苦労いたしました。
車窓から眺める、イタリアの田舎の風景は感動的でした。牧場に牛が放牧されていたり、日差しを浴びたオリーブの木の葉の耀き、全てが、いわゆる泰西名画の雰囲気をたたえています。車窓の外には、古典絵画の世界が広がっているようにも思われました。
フィレンツェ サンタマリアノベッラ駅へ無事到着。とりあえず、市内の一番安いホテルに落ち着き、今後の行動の方針を検討しました。ともかく、早急に受け入れ先の学校を探し、入学の手続きをしなければならないわけです。
つづく